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コンサートシリーズ その4

11月17日、近所にある、いかにも1950年代風のゆったりした豪華なローカル映画館(そのころの映画館は劇場と同じ社交場のイメージだった)に、シネ・コンサートを聴きに行く。まずピアノ・ヴァイオリン・フルートのトリオによるドビュッシー、フォーレ、サティが一曲ずつ演奏された後、ルネ・クレールの無声映画『眠りのパリ』が上映され、それにかぶせてサティ、ビラロボス、カラス、ウェーバー、ジョプリン、ドビュッシー、リセ、クライスラー、マルティニなどの小曲がかぶる。背景も音楽も雰囲気もすべてノスタルジックだ。1923年のこの映画は、『パリの屋根の下』のルネ・クレールの処女作で、助監督がクロード・オータン=ララというのも懐かしい。最大の主役はエッフェル塔だ。内容はダダイスムの影響濃くおしゃれで、エッフェル塔が巨大な機械じかけの観覧車のようにフォトジェニックなことに感嘆する。

博士の発明した光線で真夜中にパリ中が眠りにつく。エッフェル塔の上で寝ていた警備員だけが光線を逃れて目覚める。パリ空港にヴァンデ地方からのグライダーみたいな飛行機が着いて、観光客が降り立つ。エッフェル塔の警備員と彼らはがらんとしたパリで四日間も放蕩の限りを尽くすが・・・

パリ中が自覚のないまま四日も寝ていたというのは『眠り姫』のアイディアだが、第一次大戦による暗黒を象徴しているらしい。第一次大戦というのはもはや経験者は100歳を超す長寿者だけになってしまったが、人口が激減したほど、今に至るまで大きなトラウマになっている。第二次大戦で占領されたことやナチスへの協力やレジスタンスなどの体験も大きいが、第一次大戦の爪痕は日本人には想像できないほど深かった。青年時代にその戦争を経験したルネ・クレールは、映像第一作でそれを語らずにはいられなかっのだ。彼は第二次大戦中はアメリカに逃げてハリウッドで映画を撮っていたのでフランス国籍を一時剥奪されていた。

車がみな右ハンドルなのはどうしてだろう。左右反転なのか、その頃はそうだったのだろうか? ともかく、パリが目覚めたりまた活動を始めたりという様子をフィルムの静止や早送りなどをフルに活かしていかにも映画を楽しんでいる雰囲気がいい。途中アニメも挿入されたりしてなかなか新鮮だ。最後にユゴーの「もしも詩に翼があったなら」がトリオのリーダーらしいピアニスト、イザベル・プーランによって朗読される。選曲がすべて粋なのも彼女のセンスなのだろう。プログラムで日本でも成功したとあるから日本でもルネ・クレールをやったのだろうか。こういう空間、この映像と、この音楽とこの語り、いかにも肌にぴったりなじむ一種あけっぴろげな親密さがあって、変なたとえだが日本なら新宿の末廣亭でのんびり過ごす午後みたいだった。 (2006/11/17)

コンサートシリーズ その3

今夜(11/16)は Cedric Tiberghienのピアノ・リサイタル。場所は市の結婚式ホール。最高だった。今夜のピアノを聴いた後では、今までの人生より確実に少し幸福になった。ホールを出ても笑みをおさえられない、湿った夜気が往き道よりも優しく感じられる。ピアノ・リサイタルに行くのは、年に2、3回しかない。作品に感動することがあっても演奏に感動するのは滅多になかった。おまけにたいていの演奏は、私のバロック耳にはやかましすぎる。

しかし、この31歳のセドリック・ティベルジィアンのドビュッシーとショパンはすばらしい。何がすばらしいかというと、名人芸と知性とエレガンスを全部持っているところだ。曲想、タッチのバランス、ニュアンス、一音ごとのカラー、すべて繊細に計算され準備され、ねらったものはすべて成功している。すべてである。

私が普段「やかましい」と感じるパッセージは、たいてい難曲の聴かせどころであり腕力を披露されている気になるからだが、ディベルジアンはどんな勇壮、華麗、情熱的なシーンでも、elegance francaise と知性のたずなを握っている。ショパンの四つのバラードを聴いていると、母の国ポーランドから父の国フランスへやってきた激情の天才が フレンチ・エレガンス(elegance francaise) を身につけて行く様子がありありと分かる。

リサイタルの第一部はショパンのプレリュードとドビュッシーのプレリュードをつなげて組曲にしたものだった。ドビュッシー7曲とショパン7曲の選曲と順番がまたすばらしい。ドビュッシーの『カテドラル』から始まってショパンの1番17番と続く導入部や、ドビュッシーの『アナカプリの丘』『雪上の歩き』『西風が見たもの』を3曲続けた後でショパンのプレリュード13番が弾かれる時の癒される感じは恍惚感さえ与える。ショパンの「語り」で心理的に一定方向に快く導かれた後でドビュッシーによってすべて融解される揺さぶりも快感だ。

このショパンとドビュッシーの緩急のマッサージがどんなに気に入ったかというと、聴きながら、最高の死に方は、このピアニストに枕元で弾いてもらうのを聴きながら死ぬことだと思ったほどなのだ(CDを買ったが聴いていないので、彼のレコードを聴きながら死にたいと思えるかどうかは分からない)。この世を去る時に生命というものの要約ができて、生命の意味が分かり、生命の大きな流れの中で存在の形態を変えることができそうだからだ。

私のショパンとドビュッシーのレパートリーはとても限られているが、ショパンとドビュッシーを交互に弾くだけで人生が過ごせるような気もしてきた。それはいわゆる民族的感性を越えているからだ。ピアニストでも卓越した感性とか人間性で弾く人がある。しかしそんな人の多くは、純粋に超絶技巧を披露するパッセージでは、機械となる瞬間があって、名人芸による感動を与えたい、というアグレッシヴな感じや勝利感やら満足感やら自己陶酔やらに埋没してしまう。ティベルジアンは個性とか人間性とか情緒を投入しない。知性とエレガンスで徹底していて、それが超絶技巧のパッセージでも一貫しているというのは、希有な例である。日本でも横浜音楽祭に参加したとプログラムに書いてあったから、日本で彼を生で聴いた人もいるのだろう。もし機会があればぜひお勧めだ。

アンコールではシューマンのアラベスクを弾いた。ショパンのバラードの後でのこの選曲もすばらしい。ショパンとドビュッシー以外だと、この系列ではフォーレなどがぎりぎりこういう表現に最適のものだ。ラフマニノフに行ってしまうと、民族的感性や情緒が侵入するので演奏にも人間性とか別のファクターが大事になる。逆にシューマンは、知性とエレガンスがないと弾けない。晩年のホロヴィッツのリサイタルのアンコールでシューマンの小曲を感傷べたべたに弾いたのを聴いたことがあるし晩年のルービンシュタインのアンコールでショパンのワルツのやはり陶酔垂れ流しの演奏を聴いたこともある。まあ聴衆もそれを期待しているのでセンチメンタリズムの海にすすんで溺れて満足するのだが、センチメンタリズムとエレガンスは当然ながら両立しない。自宅から歩いて5分の場所でフレンチ・エレガンスに満ちた曲を頭のよいヴィルチュオーズの手によって聴くのはぜいたくな喜びだ。 (2006/11/16)

コンサートシリーズ その2

11月12日、『フランス音楽をめぐって』フェスティヴァルの第二弾で、室内楽コンサートを聴きに教会に行く。 「Ensemble Quarendo Invenietis」 は20代後半から30代前半の優秀な若手のアーティストによるアンサンブルでいくつかのモジュールがある。特徴はハーピストのエレオノール・ユレール=カバントゥスがいることで、最初の曲はドビュッシーのフルートとヴィオラとハープのソナタだ。この組み合わせはめったない。フランス・バロック風だ。フルート・トラヴェルソとチェンバロとヴィオラ・ダ・ガンバの組み合わせをイメージしたのかもしれない。実際フルートはヴィオラにつかず離れず中低音域を歌い、トラヴェルソの柔らかさやちょっと不安定な感じを喚起している。ハープのエレオノールの動きは優美で、楽器の弾き方が最もビジュアルなのはハープだと思わせる。

晩年の作品だが、ドビュッシーが、イタリア・ドイツ系近代音楽の枠組みから自由になるために、エキゾチシズムやエゾテリズムにインスピレーションを受ける前にまずフランス・バロックの和音進行や色彩感をよく理解していたことが明らかに分かる。ヴィオラ奏者にとって最もぜいたくで美しいレパートリーの一つだ。

次にラヴェルのヴァイオリンとチェロのためのソナタ、これを聴くのははじめてだ。この曲は1920年に書かれ、ドビュッシー(1918年没)の思い出に捧げられている。第一次大戦の犠牲者が多く、小編成の曲が多く作られた時期だったのだが、重音やピチカートがたくさんあって、その豊かさ華やかさは、とても二つの楽器の演奏だと思えない。しかし全体に抑制が利いていて、ハーモニーの色彩変化に淫するところがなく、すみずみにまで知性が行き渡っている。

最後がドビュッシーの『ハープと弦楽オーケストラのための聖なる踊りと世俗の踊り』で、ここではハープはチェンバロの代わりなどではなく、神話時代の楽器の神秘性やオーラをまとっている。物語性もあってとてもドビュッシー的、フランス的だ。ピチカートも美しい。


このコンサートを聴いた後で、シャルル=ルイ・ミオンのオペラ『ニテティス』のパサカリアのギター演奏におけるピチカートの弾き方を全面的に変更した。手の側面を弦のぎりぎり端に置いて、第一弦と第二弦を親指の腹でたっぷりすくいあげるように弾く。これで弦楽オーケストラ独特のピチカートが再現される。低音が二声あるので三声部ピチカートだが、今まではギターの音色の美しさが鈍くこもっているだけだったが、これで湿り気が生まれてヘミオラも強調できる。大収穫だ。 (2006/11/13)

コンサートシリーズ その1

私の住んでいる町で今シーズン二期にわたって行われる音楽フェスティヴァルの話。

一期目が11月・12月で、フランスのクラシック音楽シリー ズ、二期目が来年の2月・3月でバロック音楽シリーズだ。3月9日に演奏するので、その打ち合わせのために芸術監督に会いに行ったら全コン サートに通用する招待券をもらった。それで一期目から四つ選んで予約した。

昨日(11月7日)はその第一回目。

オペラ座オーケストラのソリス トであるヴァイオリンのジャン=ピエール・サブレとパリ音楽院教授のチェリストであるフィリップ・バリー、ラジオ・フランスのソリストである ピアノのヴェロニック・ルーのトリオだ。モーツアルトが一曲(K五四八)、ショソン(ト短調op3)、ラヴェル(イ短調)も一曲ずつ。

コン サートに出かける直前に嫌なことがあったので、心理状態最悪で、モーツァルトの音楽療法としての評判に期待したのだが、うまく行かず、ショソ ンのワグナーばりの壮大で悲壮な「つかみ」でようやく没頭できた。

場所は市の結婚式ホール。いわゆるコンサート劇場もあるのだが、室内楽編 成にはこのホールがぴったりだ。市の結婚式ホールというのは、フランス革命の時にカトリック教会の教会結婚式を廃して公民結婚式を導入した経 緯があるので、教会に対抗してチャペル風になっている。ここで、祭壇ならぬマリアンヌの胸像を背景に、トリコロールのたすきをかけた市長に結 婚式のセレモニーをしてもらうわけだ。日本では入籍は市役所に届けるだけで、結婚式は別だけど、ここでは市役所のセレモニーが「結婚式」のメ インとなる。その結婚証明書を持って、引き続き教会に場所を移して宗教セレモニーをしてもらう人も多い。そんなわけで市の結婚式ホールという のはフレスコ画があったり大きなシャンデリアがあったり、概して立派なのだ。

私は最前列に座ってしまったので、チェリストのチェロの先端か ら2メートル位しか離れていず、舞台なしの同じ床なので、床伝導で音が伝わってくるのが迫力があった。ピアノの音も大きすぎて、バランスとし ては、音楽療法というよりショック療法みたいだ。それに演奏者とあまり近いので、指遣いや弓遣いや彼ら同士の目配せとか、視覚情報が多すぎて、しかも、自分も4カ月後に出演することになっているので、ああこの人達もこの2時間弾いて一人10万円というギャラなんだなあ、これって 適正価格なのかなあ、とか三人の性格の比較とか、つまらぬ考えで気が散る。

ヴァイオリンのピチカートがあまりにも鈍い音なので、意味がある のかなあ、と思う。ピチカートには私の知っている限り特に奏法のテキストはなくて、みんな必要に応じて先生に見本をみせてもらって適当にやっ ているようなイメージがある。私はせっかくギタリストなんだからピチカートにテクニックを駆使しようとして爪で弾いていたのだが、その度に先生から指の腹でぺっとりと練り上げるように弾くのだと訂正され続けてついに普通のピチカートになり、しかも、弓奏法と同じくらい「下手」に なってしまった。それで、名手たちのピチカートの音にも輝きや冴えがなくて、意味があるのかなあ、になったのだ。

結局、ラヴェルではピチカー トが多用されてとても美しかったので疑問を撤回したのだが、曲がフランス風になればなるほど楽しかった。このモーツァルトはけっこうロマン派っぽいし、ショソンはもろドイツ風のロマン派、でも幸いにフランス音楽らしい独特のエレガンスがある。ワグナーでは絶対にあり得ない透明さや構成のすっきり観もある。もっと頻繁に聴いていたい。

ラヴェルはその頭脳的、人工的、色彩的な構築がとてもフランス的なのだが無邪気さに欠 けて、偏執的な重々しさがあって、ちょっと疲れるが、最悪の精神状態の時には気分転換にはなる。 

コンサート終了後のカクテルで、私たちのプ ログラム担当の文化部の人がやってきて、ショソンやラヴェルなんかはフランス・バロックの片鱗もないように思うんですが、やっぱり何か関連がありますか?と質問してきた。そこで、フランス・ロマン派がいかにドイツ・ロマン派と異なった展開をしてきたか、ラヴェルにおいても音楽の展開は建築的でなく絵画的であること、など、つい熱を入れて延々と話してしまった。彼は、プログラムをつくる時にもすごく参考になりますと言っ てくれた。

その後、近所の弁護士や引退した学校の先生などと、フランスにおけるディプローム(免状)は昔は勲章だったのに、今ではたえず能力を証明すべきアメリカ風審査社会になったことの功罪について白熱した議論になった。「庶民が政治社会問題を語るのが好き」というのはとてもフ ランス的だ。提供されたシャンペンやプチフールは美味で、こういうところはフランスは芸術と食が両方あわせて文化になっていて、いい国だなあと思う。パリ近郊の都市の例にもれず移民の多い町だが、こういう場所に集まるのは昔ながらの村人みたいな白人が多く、ある意味ほっとする。で も、お仕着せを着て給仕しているのは黒人とアラブ系の女性で、ちょっと複雑だった。ちなみにアジア系は、この町の音楽院で時々見かける若いピアニストの少年とその母親らしき人、そして私だけのようだった。(2006.11.6)


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