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フランスの「暴動」騒ぎについて

最近、フランスの「暴動」ニュースを見た皆さんから、いろいろ心配していただき、フランス文化やおしゃべりルームに書き込みましたが、昨日、国営 TVで内務大臣や警察、問題都市の市長や、シテと呼ばれる郊外低家賃マンモス団地の若者まで交えた2時間半の討論番組と、それに続き、この2週間について のドキュメンタリー番組を見たこと、移民2世の友人たちとも話し合ったこともあり、少し考えるタネをまとめてみようと思います。

まず、こういうと、フランスの移民問題や失業問題や差別の問題が根にあることを無視、軽視、あるいは隠蔽していると言う人が必ず出てくるのですが、これ は、未成年者の問題であったということを言っておきたいと思います。
フランスでは成年は18歳ですから、本当に、今回暴れていたのは、中学生が中心と言っていいくらいです。「暴動」が最高潮だった11月5日、8時半から 10時までは1台の車も燃やされず、誰も外に出ていなかったという記録がありますが、それは、彼らが、うちに帰ってフランス対オーストラリアのサッカー中 継を見ていたからなのです。また、彼らは、放火した後で携帯で撮影し、誰が最もすごい画像を撮ったかを競い合っています。「暴動」の休み時間には、音楽を 流して踊り、大麻を吸っていました。ブログやメールが戦果の報告や煽動や連絡に駆使されたのは言うまでもありません。次の日にTVで報道されるかどうかも 競い合い、ジャーナリストに向かって、自分たちはインターナショナルになったと言って自慢している映像も出ました。実際、自分の町のシテで放火があって も、徹底して報道規制をした都市もあり、そこでは、すぐに鎮静しています。

今度問題になったシテのひとつの例として、1万7千人のうち、14歳から18歳の間の男の子からなる40人のグループがいて、普段から、学校にも行か ず、集団で暴行や放火などの犯罪を繰り返していたというのがあります。そしてそのようなグループ同士で抗争があったのです。外国にまで報道されたのは今回 が初めてでしょうが、ここ何年か、国内レヴェルでは、残念ながら時々ありました。これは、今回、アメリカのような国が(ちなみに、アメリカのメディアに は、今回の暴動の映像としてイラクの映像を使ったところがあることが暴露されています。イラクで起こっていることから目をそらすために、ことさら「フラン ス内戦」を作り上げたのかと思いたくなります)批判したように「フランスのユニヴァーサリズムに基づく同化政策が破綻した結果こうなった」のではなく、そ の同化政策の徹底を怠り、このようなシテを、共和国圏外のコミュニティとして放置してきたこと、その結果、このような未成年のグループが、シテの内部や周 辺で何をしても、警察に介入されないという味をしめてきたからです。

しかも、冷戦後のネオ・リベラリズムの波に洗われて、それがひどくなり、子供たちも、ネオ・リベラリズムの弱肉強食の影響を受けてそれが暴力行使に表現 されたこと、メディアが煽る消費主義の影響で、人生が楽できれいなものであるはずだという錯覚を持ったこともあります。フランスの教育社会主義はかなり徹 底していて、政策としての機会の均等はかなり実現されています。しかしそれを、即結果の均等だと思い、努力もなくそれがかなわないと、不当だと感じる若者 が増えたこと、また、シテのゲットー化や結果的な棲み分けのせいで、実際移民の子供が就職差別を受ける状況が生れたこと、その他社会の諸問題を全部移民の せいにして憎悪を煽る極右政党のプロパガンダ、加えて、2001年9・11以降のアメリカ主導の反イスラミスト・キャンペーンと テロの恐怖が煽られたことで、「移民の子、シテ、モスク、アルカイダ」のようなイメージ操作が生れたこと、などなどの理由で、実際、すでに「共和国危機」がありました。

社会党政権の時はシテ内部の文化、教育、スポーツ、就職援助のアソシエーションを活性化したりそれなりの策が講じられ、現政権でも、ジャン=ルイ・ボル ローのような政治家ががんばっているのに、ネオ・リベラルのサルコジのようなのが強権的に警察を介入させ、移民の恐怖を煽る極右のポピュリズムを形を変え て巧妙に取り込んだこともあって、事態は最悪になったわけです。

でも、フランス全体としては、この「暴動」の期間に、リセアン対象のゴンクール賞発表などもあって、レヴェルの高さは健在という部分もあります。心配な のは、これを利用しようとするイスラミストが出てきて、宗教教育がないからこういうことになるのだ、だからモスク建設に国の助成金をなどと言い出している ことです。これならサルコジの思うつぼ。彼は、自分を必要としているのは、シテの中の善良な移民たち、クズだけ一掃するから、後はしっかりしたコミュニ ティを作ってくれという感じで押し通すのですが、それは別の形での囲い込みの固定なのですから。それでも、昨日の番組では、これから、2007年の大統領 選でたとえ政権が変わっても、シテの問題は国家的優先事にすること、それはいわゆる「問題解決」という意味でなく、シテの住民は共和国の住民であり、彼ら が国の力となるように、それがフランスの現実で未来であるということを、出席してた各政党の政治家に約束させ、確認していましたので(サルコジは「現場」 に出動のため、途中でぬけてましたが)、後味は悪くなかったです。

それに、いくらサルコジが強権的だったとしても、フランスの警察はアングロサクソンの警察に比べたらやはり、おとなしいです。拳銃社会のアメリカはもち ろん、夏にテロの後のロンドンで、警察が、テロリストと間違えて外国人青年を囲んでいっせいに射殺した事件などを思い起こしますと、やはり、フランスは日 本とは別の意味ですが、「甘い社会」という感じもします。

この論考はまだ考える「タネ」に過ぎませんので、皆さんもいっしょに考えてみてください。最近のおしゃべりルームやフランス文化質問箱に書き込んだもの も合わせて読んでください。 後、今度のことで、フランスでは子供の不登校について、家族の責任が問われ、家族の指導というのもあって、それに出ない親は罰金や懲役まで課せられ得る ということを知って驚きました。共和国理念は学校で叩き込むので、絶対らしいのです。だから、どこの移民の子でもどこのコミュニティの子でも平気、理念は 国が教え込むからという理屈です。それで、学校に来てもらわないとアウト、しかし実際上、親が失業してて朝寝して一日うちにいるような家庭が多いシテで は、子供が学校へ行くモチヴェーションがなくなるケースが多いのですね。逆に日本風の不登校というのはほとんど耳にしません。どんな社会でも、子供が「人 生良好感」を持てないところは、つらいです。「暴動」の問題は、子供の問題であり、それゆえにより深刻な問題であるのでしょう。(2005.11.11)

ギリシャで考えたこと〜その3

今のギリシャと正教について、フランスの友人たちに話したら、そのうちのユダヤ人の仲間から、この夏アテネで開かれたネオナチのフェスティ ヴァルについて辛らつに批判され、そのあとギリシャ批判の文書がメールでどかっと送られてきた。ギリシャ正教には反ユダヤ的な発言をする司祭が結構いる し、それをチェックする機構がないので、ヨーロッパで一番ネオナチが活動しやすく、フェスティヴァルを堂々と開けるので、ヨーロッパ中から集まってくるの だそうだ。ヨーロッパで禁書扱いとなっている「シオンの賢者の典礼」もギリシャでは手に入る。コスタ・グラヴァスが反ユダヤ主義がなかったかのような映画 を作ったのもユダヤ人から弾劾されている。

ギリシャはバルカン国で唯一、自国内のマイノリティの存在を認めていない。北のマケドニア地方と同じ名を持つマケドニア共和国の存在も認めていない。ア ウシュヴィッツ解放の50周年の式典には、マケドニア共和国が出席していたという理由で出席を拒否したという。ちなみに、ナチスの時代、ギリシャのユダヤ 人は85パーセントが抹殺されている。国内にマケドニア語を話すギリシャ人は15万人いるが、1994年に彼らがマケドニア文化の協会を作ろうとしたと き、ギリシャ文化の統一を乱すからと政府が拒否し、ヨーロッパ法廷で弾劾されている。マケドニアからの移民は3万人いるが存在を無視されている。35万人 のジプシーにいたっては言わずもがなだ。

ひげのないもの拒否(女性拒否というと、そうではなくてひげのないもの拒否ということで、子供も拒否されるのだ、と論点がはぐらかされる)の男性修道院 群でなる有名なモン・アトス共和国(953年に聖アタナシウス創始)というか自治区に住む修道者には、無条件でギリシャ国籍が与えられるのだが、そのせい か、そこにロシア正教などスラブ人の修道士が来るのを嫌がって国が干渉する。政治と関係ないいわば隠遁者の国なのにだ。ギリシャ正教でない人は公務員や軍 隊の採用で差別されている。

1993年のヘルシンキ統計では、ギリシャ人のうち外国人嫌いは85%、トルコ人嫌いは89%となる。アルバニア人も嫌われる。今ユダヤ人は5000 人、カトリック5万人、プロテスタント2万5千、エホバの証人7万5千、ムスリム8万5千で、正教以外の宗教は、刑法上「お目こぼしの状態」ということに なっていて、弾圧されるたびに信教の自由を侵したとEU法廷から有罪判決を受けている。

こんなことを読まされると、2005年のオリンピックはこういう国でやったんだなあ、と思い、2008年は北京なんだよなあ、とも思う。7月にダライラ マの70歳の誕生日記念のTV番組があり、チベットに対する中国の仕打ちがこれでもかこれでもかと映された後に、オリンピック開催が決まって喜びに沸く中 国の代表団の姿が流され、その後、中国は世界で一番死刑が執行されている国というナレーションが入り、陸上スタジアムに死刑囚をずらりと並べて、公開で いっせいに銃殺する白黒のニュースフィルムが紹介された。これを見たら、さすがに誰でも蒼くなって、北京のオリンピックこそボイコットすべきではと思って しまうのだが、その後インタヴューされたダライラマはもっとすごかった。破顔一笑、「中国は大きいですね、影響力があります。でも、世界の残りの部分の方 が中国よりもっと、大きいですね、世界の残りの部分が中国に来たら、中国を変えることができるかもしれません、いいことですね、ハハハ、」と機嫌よく言っ てのけたのだ。マリー・キュリーの言葉に、「C‘est poli d’etre gai」というのがあるが、それを思い出した。直訳すると「陽気でいることは礼儀にかなっている」というのだが、何というか、い いことがあったときや、ことが自分の思うように運んでいるときだけ機嫌よくするのではなくて、機嫌よく振舞うのは、まず、他人のためであるべきなのだ。絶 望的な状況でも、怒ったり泣いたりするより、人には笑顔を向けた方が、問題の解決が深いところで促されるのかもしれない。

ギリシャに話を戻すと、人間の社会では、何でも100%ということはまずないから、98%と言われると、100%の気がしてしまうというところが罠だ。 みんなが信仰を共有する、和気藹々のユートピア、今は失われたのどかで信頼に満ちた村社会、98%がギリシャ正教だということに感心して、生活と宗教の密 着ぶりに一種羨ましさを感じてしまうと、残りの2%の悲劇は見えてこなくなる。

もうひとつ、世界的に有名な女優のメリナ・メルクーリとか歌手のナナ・ムスクーリらの感動的な愛国心のエピソードも思い出す。EU連合で、ギリシャ語人 口は少ないからと、ギリシャ語が公用語からはずされそうになったときのことだ。ムスクーリはEU議会で、「我々は400年のトルコ支配の中でギリシャ語を 死守してきた。今晴れてヨーロッパ(これを彼女はエウロパとギリシャ語で発音した。まさにヨーロッパの語源である)の一員になれたのに、ここで言葉を失う わけにはいかない」と熱弁して、ギリシャ語を守ったのだ。

この感動的愛国心が、独立後の自国のマイノリティの尊重には結びついてはいない、というところが、残念だ。トルコ支配の反動のナショナリズムは分かる が、人は、必ずしも不遇時代から教訓を得るわけではないと言うのが、国のレベルでもそうなのだと考えさせられる。不遇を経験して優しくなる人、頑なになる 人、復讐モードになる人、いろいろあるのだ。

それにしても、日本人にこの手の「土産話」をしたら、「へええ」と楽しんでもらえるばかりということがほとんどだが、フランス人にしたら、ギリシャに好 意的な私の話し方に直ちに反論する人が出てきたのもおもしろい。フランスは100%や98%はおろか、「ひとりひとり全員違う」(しかし違いを尊重する理 念だけは共有)という認識のある国だから、考えるタネはどんどん育っていくわけだ。ちなみにこのごろはフィリッピンのことを考えている。また、フィリッピ ンは90%カトリックの分かりやすい国というばかな先入観を覆されてしまった。ミンダナオ出身の家政婦さんと話し合って、ことの複雑さを思いしる。おかげ で少し英会話が上達したかも。(2005.9.30)

ギリシャで考えたこと〜その2

ギリシャから帰って、まだギリシャのことが頭の中にあるせいか、何を読んでいて も、ギリシャのことが目に付く。 シンクロニシティというやつだろうか。たとえば、前田速夫の『異界歴程』という本を読んでいたら、ラフカディオ・ハーンがその名の由来となったギリシャの レフカス島で生まれたとあった。母はギリシャ正教で、アイルランドに渡ったときに気まずい立場になった。父はアイルランドでマイナーなプロテスタントだったからだ。母はハーンが4歳のときにギリシャに戻って、それが生き別れになる。ハーンはカ トリックの大叔母に引き取られ、イギリスやパリ近郊のカトリックの神学校に入れられたというのだ。ハーンは「そこでは日と月は今よりもっと大きく、もっと 明るかった」「その空ははるかにもっと青く、そして地に近かった」「海は生きていて、いつも話をした、そして風がが触れると私は嬉しさに叫んだ」と、生ま れた島の回想をしている。私も、風車がくるくる回るミコノス島の強い風のことを思い出してしまった。昔、松江の小泉八雲記念館に行ったことがあるが、彼の 中のギリシャや宗教の葛藤のことなど考えたことがなかった。体を運んではじめて立体的に見えてくることもある。

もうひとつは、最近翻訳を始めた小説だ。はじめの方に、主人公が出入りしている屋敷の女主人が出てくるが、彼女がギリシャ人なのだ。最初に読んだとき は、手に汗握る話の展開に気をとられてあまり意味を持たなかったのだが、今見ると、ギリシャが大きな意味を持ってくる。来年の春に出版予定のミステリー仕 立てだから詳細は言えないが、最後のシーンは明らかに私が行ったパトモス島だ。黙示録の洞窟が出てくる。ヨハネが頭をおいた窪みと手を置いた窪みが目に浮 かぶ。そして、青のイメージ。聴覚映像というのがあるけれど、ギリシャというと今の私には切り取られた青が浮かぶ。ハーンの青、洞窟から見える青なのだ。

そんなわけで、このギリシャをもう少し整理しないと前に進めない気がするので、もう少し話を続けよう。前回はギリシャ正教のことを書いたが、アテネとか アクロポリスとかいう古代ギリシャのことにも触れておくと、巨大な神殿が、基本的に、巨大な神像を祀るためにだけ建てられたということにやはり驚かされ る。儀式は神殿の外の祭壇での生贄を燃やすことが中心だったから、人は皆外にいた。キリスト教のカテドラルなども巨大だがその中に司祭や信者が入り儀式を する場所だ。ギリシャの神殿は人間の容れ物ではなく彫像だけのためにある。それなのに、あのように大きく、それを建設したのは、奴隷でなく自由民だ。石を 切り出す役も、石を運ぶ役も、積む役も、装飾する役も、皆均等な報酬で働いたという。奴隷はいたのだが、自分たちの守護の神殿は自分たちで建てなければならないと信じていた。

これはある意味すごい。古代の巨大建築でも、秦の始皇帝の墓とか、ピラミッドとか、いかにも権力者が自分の権威のために造ったのであろうものは、奴隷が 強制労働させられていたのだろうと分かるが、自由民が何年もチーム作業をして、寄り合いの場でもない神殿を建設するのにこだわったのだ。しかも、アテネの パルテノンなどは、地ならしの基礎工事をしていない。その技術はもちろんあったのに、丘の自然のカーブに合わせて石を組んだのだ。だから直角の線がどこに もなく、石は台形で、ジグソーパズルのように各ピースが収まるように一つ一つ番号がふられていた。よく見たら堂々とした柱も内側に傾斜したりしている。つ まり、パルテノンは、ただの神像入れではなく、それ自体が土地から生えた有機物のようにして造られたわけである。

神々はその環境とともにひとつの生命体を成すと考えられていたらしい。自分たちで汗を流して巨大なものを造ってその守護を信じた心理の秘密はその辺にある のだろう。日本的なアニミズムなら、最初から大木とか山とか大滝とか、自然そのものをご神体にしてしまって後は拝殿や鳥居を作るとか、わりとシンプルだ が、自然の延長を人工的に増幅してしまうギリシャ人の腕力には感心する。

それにしても、これほどまでに三次元の家付き神像に思い入れをしていた民族が、パレスチナの荒野生まれのキリスト教を受け入れた後では、神像を破壊して 二次元のイコンやフレスコ画にだけ向かったのかと思うと、これも感慨がある。イコンの中に、彼らは、巨大な神殿よりも大きい何ものかを見ることができたのだろうか。彫像もレリーフもフレスコ画も何もかもびっしり並べて平気だったカトリックとは全然違うメンタリティが生まれても不思議ではない。続きはま た。(2005.9.19)

ギリシャで考えたこと〜その1

9月のはじめ、久しぶりにエーゲ海に行った。あまり期待していなかったのに、新しい発見がたくさんあった。もちろん、悠久のギリシャが変わっ たのではなく私の見方が変わったからだ。若いころに行った時は「ギリシャ=西洋文化の起源、神話と哲学者たち」というイメージを追っていた。その頃は、ま だ学生時代に荒井献先生に習ったギリシャ語の知識のストックがあって、目にするものが多少解読できた記憶があるが、結局、自分の見たかったものを見たに過 ぎない。

今回は、アルファベットの読み方すらあやしかったのだが、クルーズの中のギリシャ語講座で覚えた片言を武器にして (考えたら荒井先生にはプラトンの 『ソクラテス』の弁明を解読するだけのためのギリシャ語を習い、その後で新約聖書のギリシャ語ゼミに出たときにはもう無能ぶりをさらしたのを思い出す。現 代の日常会話を覚えようという発想はなぜかゼロだった)、あとは英語とフランス語とちゃんぽんで、イコン売り場のおじさんたちに、毎日の信心について質問 をしまくった。98パーセントがギリシャ正教で、全然政教分離していない、EUの中では特殊な国だから、誰でも教義の質問やいろいろな習慣について答えて くれる。

私の知りたかったのは、どうしてマリアのドルミションだけが信仰の対象になって、被昇天には興味が寄せられないのか、聖ヨハネも体が消えていたと言われ るが、聖遺物としての遺体に対するこだわりがないのはどうしてか、古代の神殿であれほど三次元の神像に思い入れしていた民族が、キリスト教時代になって、 彫刻を偶像としてすっぱり排し、その代わりに二次元のイコンなら「聖なるものへの窓」としてどれだけ拝んでもOKという極端に走ったことに矛盾を感じない のか、などだ。

正教は総主教区によって異なっているとは分かっていたが、これまで正教といえばロシア正教についてばかり読んで、ギリシャのことはあまり考えたことがな かった。今のギリシャ正教の特色はナショナリズムだ。15世紀に征服者であるトルコによって信仰を禁じられ、400年も、いわば隠れキリシタン状態で、言 葉と宗教を持ちこたえてきたというのは考えてみればすごいことだ。今でも、理論上はコンスタンティノープル総主教に属しているはずなのだが、その総主教が トルコ人であるということがギリシャ人にはどうしても受け入れられない。それでギリシャ大主教を立てて自立することにしたくらいにこだわりがある。今のカ トリックの首長であるローマ法王がドイツ人だからといってポーランド人カトリックがローマから独立することは考えられないが、ギリシャでは宗教と政治とナ ショナリズムは渾然一体となっている。

ロシア正教では、既婚の男も司祭になれるが、司祭になった独身者はもう結婚できない。主教になれるのは独身者だけだ。ギリシャでは、司祭も結婚でき、結 婚生活の最初の2年間は子供を作ることができる。ギリシャ人にとって家族を作ることはすごく重要なことで、司祭も一人の父親として、人々と悩み事を共有す る。学校教師などの定職についているのが普通で、地域の人とあまり変わらない。ちなみに、ギリシャ正教では離婚は2回までOKだそうで、ギリシャ男の理想 の人生は3度結婚して、最初の妻との間に男の子をもうけておくことだそうだ。なぜ子供は男の子がいいかというと、子供が結婚する時は、男は「姓」を持参 し、女は家を持参すると決まっているからだ。女の子が生まれるとすぐに土地だけローンで買っておいて、大人になるまでに少しずつ自力で家を建てる人もい る。新婚カップルが都会のマンションに住む場合でも、娘が「持参」する家は賃貸しして収入の足しにする。娘ばかりたくさんいる家庭は破産しかねないそう だ。結婚式には教会に地域民全部をよぶので700人とか、カテドラルなら3000人というのもざらだ。その後の飲み食いも含めて、経費を出すのは結婚の証 人となる人で、日本の仲人のように、その後の生活の相談役にもなるので年配の人が多い。フランスでの結婚式の証人役はたいてい新郎新婦と同年代の友人がな るのとは違う。

フランスでは市役所での結婚証明書をを持って行かないと教会で式を挙げてもらえないが、ギリシャは、フランスの中世がそうだったように、結婚も出生も、 事実上教会行事がそのまま戸籍につながる。フランスでは、出生後3日以内に届けを出して、洗礼は2歳までならいつでもOKで、戸籍名をそのまま洗礼名に使 うのが普通だ。ギリシャでは洗礼を受けるまでは名がなくて、赤ん坊はベベとかべバとだけ呼ばれる。だから洗礼はできるだけ早く、おそくとも生後40日まで に行われる。赤ん坊の額に水を少しかけるカトリックと違って、裸で3度完全に頭まで水中に浸けるので、トラウマが残らないように、まだ羊水の記憶のあるう ちに、早く済ませるという意味もある。  生後8日目に割礼するユダヤ教より、7、8歳にもなってから割礼するイスラムの方がトラウマになりそうだと思っていたが、水没3回もトラウマになるのだ ろうか。

ギリシャで知り合ったフランス人のジルは、40がらみだが、カトリックから正教に改宗することにして、来年早々に洗礼を受ける。冬の冷たい洗礼盤で彼が 裸で潜るのを見るために友人たちがフランスから大挙してやってくるそうだ。彼はギリシャに住んで12年になり、三位一体を示す三本指で三回十字を切る姿も 板についているのだが、いつもギリシャ人から、「いつギリシャ人になるんだい」とずっと聞かれていたのだそうだ。はじめは帰化することかと思ったが、正教 に改宗することだった。正教=ギリシャ人なのだ。

ちなみに、正教では煉獄がない。天国か地獄のどちらかだ。これはなかなかつらいので、残された人が7年間祈って魂を天国へ導く。追悼ミサも、40日後と か1年後、2年後とか7年後の命日まで続き、7年でめでたく天国に入り、この時点で墓を掘り起こして骨を取り出して墓地を空ける。それなら、魂の行き先が まだ決まっていない7年間は、まだ体という容器が必要だとみなされているのかと想像できるのだが、彼らはそれを認めず、大事なのは魂だけだと主張する。ド ルミションのイコンでは、横たわるマリアのそばにイエスが立っていて、布にくるまれた赤ん坊を抱いている。この赤ん坊が、天国に生まれたばかりのマリアの 魂なので、ここでマリアの物語は完結する。残された体の行方は、空に昇ろうが骨に帰ろうが本質的でないらしいのだ。

ほんとうだろうか、キリスト教初期の殉教者の体や遺品や墓の土などを拝んで類推魔術のような民間信仰を作ったのはローマ人ばかりではなかったはずだ。あ れだけイコンに思い入れて、奇跡のイコンなどの話がどこにでもある世界で、聖人の体に執着しないなんて信じられない。

そんなわけで、船がクレタ島に寄ったときに、真っ先にイラクリオンの聖ティトス教会に行った。クレタの初代司教であるティトスの頭蓋骨があるからだ。昔 クレタ島に来たときは、ともかくクノッソス宮殿の遺跡と博物館に訪れたのとは大分変わった。ちょうど洗礼式があり、香立ての周りを時計と反対周りに、司祭 と赤ん坊を抱いた女性が向かい合って何度もぐるぐる回っていた。香の煙は、その周りを円陣で囲む参会者にも分けてもらえる。教会内はすべての正教の教会の ようにイコンとフレスコ画で埋められ、人々は、2回十字を切ってからイコンのケースに3度接吻し、その後また1回十字を切る。(ミサの後にそれぞれカゴか ら取っていくパンのかけらは普通のパンだ。ミサの前には、持参した特別の丸パンを供えることになっている。)

ティトスの髑髏の入った豪華な聖遺物ケースは、本陣の脇の小部屋に置かれている。イコンにさんざん接吻したり十字を切ったりした後で、一応ここにやって きて聖遺物の前で十字を切る人も中にはいるが、聖ティトスのイコンに対してよりも深い思い入れを持っているようには見えない。丸い帽子型の聖遺物入れの上 部はわざわざ丸くくりぬいてあって、茶色に変色した頭蓋骨が拝めるのに。大体この聖遺物は、トルコ占領時代にはヴェネチアの聖マルコ寺院に疎開していて、 ここに戻ったのは1966年だとか言う。どうりで、容器などの作りがカトリック・テイストなわけだ。

トルコ時代、たいていの教会はモスクに作りかえられた。でも、ギリシャ人は、自分のうちにイコンを飾ればそこがそのまま信仰の場になる。家庭祭壇システ ムだから400年も逼塞できたのだ。今でも、自宅にイコノスタシスやチャペルを建てる人が多い。家族が死んだときなどは、ガレージを改造してチャペルを作 り、司祭を呼んで例の7年間のミサをやるのだ。金持ちは皆私設のチャペルを建てるから、サントリニ島の青いドームの乱立のような不思議な光景が出現する。 教会のそばにそのミニチュアのイコノスタシスが建っていることもあっておもしろい。サウジアラビアに私設モスクがたくさんあって丸屋根と尖塔があちこちに あったことを思い出す。

しかしここまで、地域の生活と宗教が密着していたら、毎日曜にミサに行かなかったら村八分にされてしまうのではないかと心配だが、実はそんなことはな い。それぞれ自分ちの祭壇や自分ちのチャペルで拝んでいるのも普通なので、ミサに行かなかったら即不信心だとみなされることもないのだそうだ。

ギリシャの話はまだまだあるが、とにかく面白かったのは、古代ギリシャ、ローマ時代、キリスト教時代(ここには場所によって、十字軍でのヴェネチア支配 時代が入ったりするのでややこしい)、トルコ時代、そして独立した再び正教の時代とはっきり層を成していることだ。トルコといっても、今回寄ったエフェソ スなどは、完全にギリシャで、ここを見てると、トルコがEUに入ってもおかしくないというか、ギリシャがEUに入ってるのが不自然というか、妙な気がす る。山の上にある「マリアの家」がカトリックの巡礼地になっているのもおかしい。トルコ人ガイドは、マリアはイスラムでも預言者の母として人気だから、と 満更でもない様子だったが、あれだけ聖母好きの正教徒の方はほとんど無関心だ。彼らには「効験あらたかなイコン」があれば、体だの遺跡だの必要ない。

エフェソスの町の遺跡も不思議だ。ここはトルコにあるのに、「トルコ時代」が欠けているからだ。キリスト教時代に捨てられ、イスラム時代は廃墟だった町 なので、ギリシャ、ローマ、キリスト教時代と、3つの文化の重層のまま時が止まっている。

パトモス島では聖ヨハネ修道院や、ヨハネが黙示録を書いた洞窟を見学した。修道院には今も復活祭の行列に使われるエル・グレコの描いたキリスト像があ る。囚われのイエスの悲痛な目と、トルコ占領下のギリシャの悲哀が重ねられているという。グレコがイコンを研究したというクレタのイラクリオンの聖カタリ ナ教会にも行った。イコンがみなグレコの絵に見えてくる。クレタ生まれのテオトコプロスは、ヴェネチアを経て、トレドでエル・グレコになった。彼の信仰の 軌跡はぜひ知りたいところだ。 ギリシャについては考えるタネをずっと育てていくことになるだろう。他にもいろいろ書きたいことがあるがひとまずこれで、土産話に代えることにしよ う。(2005.9.13)

松浦のぶこ歌集『巴里時間』(角川書店)について

ちょうど雑誌『中央公論』で連載中の山折哲雄さん連載の『「歌」の精神史 』を読んで、短歌から感傷性が消えて索漠と乾いてきたという分析についていろいろ考えていたところに『巴里時間』をいただいた。

短歌は昔は身もだえするような叙情を歌ったが、今は、湿った叙情は野蛮というか軽蔑されている傾向にあるという。感傷性は演歌とか浪花節に閉じ込められ る。俵万智の『サラダ記念日』がうけたのは、よく言われているように、短歌という古い革袋に新しい感性の酒を盛ったからではなく、実は、逆に、広告コピー やポップ・ミュージックのようなライトで今や使い古された言葉遊び(古い酒)が、新しい革袋(短歌形式)に盛られた新鮮さ故ではないか、という斎藤美奈子 さんの説も紹介される。短歌は叙情を盛り付ける器ではなくなり、理知的に寸断されたしゃれたサラダを受け入れるサラダボールになっている。 詩人の富岡多 恵子のショッキング言葉も紹介されている。たとえば「季節は変わっていくのに自分の亭主は帰ってこない」というような私ごとの悲しみを五七五七七に乗せた ところで、その悲しみがすっと移動するだけで、だから、どうなの?と言いたくなるというのだ。それは戦争を歌ったものでもそうで、「泣き声もたてなくなり し吾子よ死ぬな死ねば貨車より捨てなばならぬ(梶原徳子)」という中国からの引き揚げの光景でも、原爆の光景でも、感情は動かされるが、やはり、だからど うしたと言いたくなるらしい。

それほどに、今の短歌は湿潤を嫌い乾燥を礼讚し、泥臭い情念を抑制し、聡明で、心情の奥底から噴き上げる喜怒哀楽を避け、冷静に知的に対象を隈取り、対 象と距離を置き、花鳥諷詠の俳句と変わらなくなっている。

西行などは「かたじけなさに涙こぼるる」だの「いかなりとてもいかにかはせむ」だのとベタな感情を出しているのに、「だからどうした」と言われないの は、「私ごと」を超越しているからなのだろうか。

と、考えをめぐらせている時に、『巴里時間』が届いたのだ。駐在員の妻である著者の五年におよぶパリ滞在中、日本で一人暮らしの老母が認知症になり、 ホームに入れたがその後亡くなり、自分は異国で鬱病になって入院するなどの出来事が、「小さき母」や「鬱の谷」などの章に交互に配され、良質のエッセイを 読んでいるような充実した一冊だ。

そして、この歌集には、湿潤と乾燥、感傷と理知がせめぎ合っている。身もだえするような歌もあれば、抑制の利いた乾いた歌や秀逸なコピーライトのような 歌もある。そのスタイルの模索の中で、「情景の再現力があり、リズムがよく、自己の視点がある」という秀歌の条件を満たしたものも多いが、そんな抑制が外 れてほとばしる感情が自然に短歌の革袋から注がれる歌もある。情景の再現力のある典型的な秀歌はたとえば次のようなもの  

風を切つてゆけ車椅子ピケ帽の母に次々うなづく向日葵

裏道の洗濯物の重なりの天辺(てへん)をほそく駆ける青空 (ナポリで)

コピーとしてあまりにもうまいが湿潤ゼロのものは次のようなもの   シャンパンと歓声あびて引き出せるユーロ新札新年零時

海は嫌ひ、泳ぎ出したら海面にらいんはないし雲は歩くし

感傷と理知の間にはさまってアフォリズムのようになっているのもある。

長らへば死はなほ怖しと朝露のやさい畑で伯父呟きぬ

生ける間の毒ある言葉いまはただ追憶の川に光りて愛(かな)し

海綿のごと諒解されて虚しさはなほ募りけり他人は他人

感傷がぼろぼろに出ているのは骨粗鬆症の背骨が圧迫骨折を起こして痛み苦しむ老母を山姥とたとえた章の中で母の背骨を撫でながら歌った

この骨は吾をつくりこの乳は吾を足らしぬ母よ母よ

母を施設に入れてフランスに戻る時の

良かつたとこれで良いかとせめぎあふ帰りの機中ハンカチ熱き

や、鬱病に関する歌などがある。

胸さわぎするときは駄目音楽もモーツアルトは死にさうになる

これらの歌は、「だから、どうなの」とは思えない。悲しさや苦しさや虚しさがちょうど五七五七七にのって、同じ波長の水に浸れる。他に、時事を読み込ん だ歌や巴里の生活を切り取った歌も多いが、私には題材に新鮮味がないせいか、たんにレトリックの駆使だけが目だった。それはそれでいいのだけれど。 ちなみに私の好きなのは、抗鬱剤を飲む時の、

吾とわが精神(こころ)は物質(もの)と知りてより切なくもあるか薬のむとき

実家を整理していて、多分新聞の切り抜きが出てきたのだろう、

論説の部厚き束が綴ぢられて読まれず在りぬ記憶の遠野(とほの)

の2つだ。どちらも理知に支配されているのに読むとなまの感傷が響いてくる。ロマン派は感傷的で、バロックは感情の演出だとすると、私はもちろんバロック 派なのだが、五七五七七で「演出」をやると、マニエリズムに陥る危険がある。逆に感情を垂れ流しても五七五七七がストラクチャーを与えてくれるので、ロマ ン派にならないですむのかもしれない。『巴里時間』は才気あふれる全方位OKの歌集だが、著者はほっておいても理知的なタイプなのだから、歌の世界に湿潤 を取り戻してかつ「だから、どうなの?」と言われない共感力の大きい歌をどんどん詠んでいって欲しい。 (2005.6.30)

『招客必携』

書評を一つ。『招客必携』(中央公論新社)という19世紀フランスの美食概論の翻訳です。アンフィトリオン(晩餐のもてなし役)の心得と招待 された側の心得も書かれています。フランスでは今も、家庭に招き招かれるという社交は一般的で、誰にいつ何回招かれていて今度は自分の番だといつもチェッ クしなければなりません。献立や、手土産も記録しておかねばなりません。私は、ここ数年、コンサートや展示会付きのパーティを年3、4回、自宅または主催 するサロンのアパルトマンで、人数制限なしで一方的に開くという形でこなしています。そこに来る人は、私個人でなくサロンから招待してもらったという形な ので、後で私を招き返す義務がなくなります。つまり、私は、好きな人を好きなときに、招くだけという立場です。実は、『招客必携』のアンフィトリオンとい うのもそういう「招き」専門の人で、いかに招くか、が人生の重大事なのです。

よく、世をはかなんだ人が、自分は生まれたくて生まれたんじゃない、とか、親に生んでくれと頼んだ覚えはない、などと言う表現をします。でも、私達がこ の世に生まれたのは、この世に「招かれた」のだと考えたらどうでしょう。母親の人生に、両親の人生に、町や国や地球の歴史と運命の中に、私達は招かれた。 すると招かれた者の義務が生じてきます。もちろんアンフィトリオンにも義務が生じます。招く側は優位にありますが、「アンフィトリオンはその優位点を濫用 するようなことがあってはならない。自分自身が接待役であることを心に留め、多数の人が容易にゆるさないような優遇を、ある人に限定してするのではなく、 すべての会食者に平等に対する態度に、高潔さと機敏があると思い起こ(p273)」さねばなりません。またアンフィトリオンは、返礼の招待に出向く義務は ありません。だからといって招待された人は、アンフィトリオンに対する借りがないと判断してはなりません。

「相互の必要性によって人々は強く結びつけられている。ディネは、アンフィトリオンはもちろん、会食者なしでは済ませられないものであり、お互いは、め いめいがいたわり合い、ともによりよい時間を過ごすことを、実質的な得としている。(p274)」

「人生はすべて相互関係によって成り立つ。弱者は強者と、篤志家はその恩恵を受ける者と、アンフィトリオンはその会食者と、運命をともにする相互的な義 務の連鎖があるからこそ、社会は維持されているのだ。つまり義務の連鎖によって、社会という相対の調和が自然に保たれる(p269)」

つまり、私達は人生に招かれてきました。「招き」自体は見返りを要求しない無償の行為ですが、招かれた人には、招いてくれた人と楽しくテーブルを囲む義 務が生じます。そして、人生の目的は、ディネの喜びの分け合い、人生の美食を共にすることであり、自分も招く側に立つことです。招かれて人生を始めた人 が、招く側になる。子供を生んで育てることでも、社会活動することでも、作品を発表することでもいい、他者と、「ともによりよい時間をすごすこと」を演出 し、招待状を出し、一人でも多くの人とディネを分け合うこと、招いたり招かれたりしてこそ人生のディネは楽しくなる。他人への義務を放棄した、たった一人 の個食、孤食では、人生に私達を招いてくれた人々への借りを返せない。のです。

思えば、福音書の中のイエスというのも、よく食べたり飲んだりしています。誰かに招かれたら断らないし、招待者のワインが足らなくなったら水をワインに 変えたりしている。自分が招待するときは、さぁ、よってらっしゃい、たべてらっしゃいという感じで、パン数個と魚数匹しかないのに、群衆4000人が一緒 に食べられるように増やしてしまいました。神の国での食事にもみんな招かれているのになかなか行こうとしないという例え話もしていますし、あまり楽しそう に飲み食いしているので、洗礼者ヨハネのような禁欲的グループと違って享楽的すぎるという批判もされたようです。

でも、このイエスのオプティミズム、フランス語では「bon vivant」といいますが、おいしいものをみんなで分けて人生を楽しもうというシンプル さが、洗練されたアンフィトリオンのマニュアルの底にも流れています。

アウシュヴィッツで死んだオランダ女性エティ・ヒレスムは、たとえば、昔すごくおいしいコーヒーを味わった体験が、収容所での苛酷な生活を生きるのを助 けてくれるというようなことを言っていました。収容所では、前にいい暮らしをしていた人は苛酷な条件に慣れていず絶望も大きくて脆弱で、すぐに打ちのめさ れる、というタイプも多かったようです。でも、逆に、楽しみや幸せのストックがたくさんあって、そのおかげでどんな条件でも建設的な気持ちでいれるし、少 ないものでももっと弱っている人と分け合うことに精を出すエティのような人もいたのです。

確かに、こういう人生観は、私達を人生に最初に招いてくれた親や家庭や地域や時代の環境によって左右されるかもしれませんが、「私達は無償で招かれた」 というポジティヴな視点を導入して、たとえ人生に、収容所や十字架や老いや病が待っていようとも、今いるところで、楽しく食べられる時に食べておこう、自 分の人生の楽しいディネにできるだけ多くの人を招くよう努力しよう、と思えるのはすばらしいと思うのです。 世の中には、集団自殺を呼びかけて、「生まれたくもなかったし生きる価値もない」自分の抹殺に仲間を募る人もいますが、「仲間を必要とする」ことがすで に、人生本来の「招き」 の感性がまだ残っている証拠ではないでしょうか。虚無感に捕らわれている人にこそ、人生における「もてなしの哲学」である『招客必携』を読んで欲しいと思 います。遠い国の遠い時代の特権階級のマニアックなグルメの話には、実は、人生とは「みんなでおいしく食べる」ために招かれた宴会場で、そこで生きる証し とは、いつか自分が招待者となることだという思想が、ぜいたくに盛り込まれているのです。(2005.6.11)

PS:このHPをごらんになる出版社の方にご案内。私の興味をひきそうな本をフランスに送って下されば、必ず書評をのせます。また私の読者の方 には、私の本のご感想をお寄せいただければ掲載します。

ハイデガーについて

近ごろフランスの哲学界で話題になっているのはハイデガーの戦争責任だ。というより、ハイデガーはナチスの選民思想に哲学的根拠を与え、ヒト ラーの宣言のいくつかも実はハイデガーが書いたのではないかとさえ言われている。

根拠はないでもない。ハイデガー全集の第16巻に「民族衛生」を擁護する部分があって、ドイツではすでに2000年に、ちょっとしたスキャンダルになっ ていた。彼は、1933年4月、師であるフッサールがユダヤ人故にフリブルグ大学を追われた10日後、学長になっていて、SSのためのセミナーも開いてい るし、ドイツ精神を称揚し、カルル・シュミットなどが戦後、ナチズムの色濃い著作を再発表しないように自粛(か隠匿?)したのに対して、一度も過ちを認め たことがなく、戦中の著作を隠すこともしなかった。それどころか、1976年に死ぬまでに、何度も、人はドイツ語でしか真に思考することはできない、とい う意味のことを繰り返していた。

しかしどうしてフランスでハイデガーのナチズムがスキャンダルになるのかというと、サルトル、デリダ、ラカン、フーコーといった戦後フランスの大哲学者 たちがそろってハイデガーの思想を受け継いでいるからだ。今ハイデガーを非難しているフランスの哲学者は、シュミットやハイデガーの思想を世界中に広めた としてデリダを名指しで批判しているほどだ。つまり、ラカンやフーコー以来、一種行き詰まったフランス思想の伝統の重荷を追い払う口実のひとつとして、新 しい世代がハイデガーの戦争責任をあげつらっているふしもある。
これに対して、ハイデガー思想を受け継ぐ哲学者たちは、ハイデガー哲学の中心コンセプトである「Dasein」こそは、個人のいかなる帰属性(民族な ど)をもラディカルに排除したものであり、ナチズムの優生思想などとは関係がないと主張する。実際、ハイデガーはユダヤ人が生物学的に劣っていると言った わけではなく、ドイツ人こそ選民だと言っただけだ、という。

このやりとりを見ていると、ドイツ人が自分を偉いというのは本当かもな、とも少し思ってしまう。「いやいやドイツ人といってもみんながハイデガーやニー チェやゲーテというわけではなく、ビール腹のおじさんや、ソーセージのような腕をしたおばさんたちもそこいらにたくさんいるではないか、あいつらはどうみ ても普通だぞ」とも思えるし、私の好きな本川達雄さんの『ゾウの時間ネズミの時間』にあった「島の規則」のことも思い出す。島に隔離されて捕食者の制約が 少なくなれば、哺乳類は無理のないサイズに戻る傾向がある。ゾウは小さくなってネズミは大きくなるのだ。本川さんは、島国ではエリートのサイズは小さくな り、逆に庶民のレベルやスケールは大きくなるのではないかと連想する。島では出る釘はすぐに打たれるが、大陸では戦い抜かれた大思想が生まれ、それはゾウ のサイズのように、人間が取り組んで幸福に感じるサイズを越える巨大なものになっていく。

アングロサクソンと同じゲルマン系だが海を越えて拡大していけずに大陸で生存競争をしたドイツ人はいかにも強靭に見える。日本人として、ハイデガーの言 葉で気になることは、ナチの用語で「アジア人」といえばユダヤ人であることだ。我々から見ると、何世代もヨーロッパに根を下ろしたユダヤ人などまるで「西 洋白人」にしか見えないから、ユダヤ人のホロコーストの問題でも、何やら一神教同士の対立があり、歴史と宗教の複雑な事情があるのだろうと思ってしまいが ちだが、ナチスははっきりユダヤ人=アジア人=劣等と言っていたわけで、多分本気でそう信じてたような気もする。こういうと、第二次大戦でドイツと日本は 同盟していたではないかと言う人がいるだろうが、そのためにわざわざ、ドイツは「日本人のルーツ=白人」説を流布していた。いわゆるアイヌ=コーカソイド 説である。

今では、アイヌはコーカソイドではなく、縄文系だとか言われているし、たとえアイヌがコーカソイドであったとしても、ドイツと同盟したのはそのアイヌを 差別した大和民族なのだから、本当はドイツの論理は成り立たない。しかし、今でも、ヨーロッパに来る日本人は、ある年配以上の普通のヨーロッパ人から、時 々、「アイヌは白人だよね」と変に親しみをこめて言われることがある。私も昔は、何でこんなマニアックなことを言うんだろう、と思っていたが、三国同盟を 支えるプロパガンダとして有名だったわけだ。 しかし、ドイツ人が、アイヌ白人説をでっちあげてまで、「アジア人は劣等」と思っていたのだとしたら、やは り、日本人としては、気になる。ハイデガーは難しいとしてもその流れを汲んだフランス思想は日本人のお気にいりだったし、ゲーテやベートーヴェンなど、日 本人がほとんど国民的に尊敬してるドイツ人はたくさんいる。

ところが、この、フランスにおけるハイデガー論争で、ハイデガーを擁護する側が出してきた説明というのに、おもしろいものがあった。つまり、ナチズムや ハイデガーのドイツ選民思想は、実はドイツ・ロマン派を継承するものだというのだ。ロマン派は、ナポレオン戦争で国民国家の概念ができてしまった結果の、 民族アイデンティティの濃いナショナリズムと結びついている。その中で、ドイツは、それまで諸公の林立する領邦国家だったり、神聖ローマ帝国として、ロー マ法王の認証を得るべき立場だったり、という歴史のくびきから逃れようと、「ドイツ人」のアイデンティティを模索し、ドイツをヨーロッパの中心におく世界 観を構築しようとした。そのためには、ドイツの歴史文化と深く絡んでいた「ローマ色」と「聖書色」を一掃しようとする運動があった。哲学も、キリスト教世 界に大きな影響を与えたソクラテス以前の哲学を重視した。言ってみれば、ハイデガーは、ドイツ(ヨーロッパ)の歴史と切り離せないグレコ・ロマンや、ユダ ヤ・キリスト教の伝統を振り払って真にドイツ的なエッセンスを求めようとして、歴史や民族の帰属性のない実存的Daseinにたどり着き、現代哲学の方法 を切り開いたのだとも言える。

そういう目で見ると、ドイツ・ロマン派の多くが潜在的に反ユダヤ的流れの中にあったことも想起される。ロマン派作家クレメンス・ブレンターノは、ウェス トファリーの修道院にいたアンナ=カトリーヌ・エメリッヒという修道女のもとに通って、その幻視を熱心に書き留めた。ババリアにもテレーズ・ニューマンと いう有名な幻視者がいて、この二人は、超常的な聖痕から血を流すなど派手な存在で、人気を博した。しかも、イタリア人でなく、地元ドイツの女性で、ドイツ 語で幻視を語ったのだ。このエメリッヒの幻視のキリスト受難で、ユダヤ人が神殿の中で十字架を作るシーンがあった。これを読んだメル・ギブソンが、『パッ ション』の映画に使った。反ユダヤ主義的だ、神聖な神殿内で刑具を作るなどあり得ない、そもそも十字架刑はローマの処刑法で、ユダヤ人は関わらない、など と猛烈に批判されて、劇場上映版ではカットされたという経緯がある。

キリスト教が「ユダヤ人=キリスト殺し(そう言わないと、ローマ帝国内でのキリスト教発展に問題がでたので当然の政策でもあった)」という立場を公式に 捨てて謝罪を始めたのは20世紀も半ば以降の話だから、19世紀初めのエメリッヒの幻視は、当時のキリスト教のイメージに影響されていたのだと言えばそれ までだが、ロマン派、ハイデガー、ナチズムと並べると、強靭な精神と知力を持つ民族のアィデンティティ模索の過程における運命の変転に感慨を禁じ得ない。
ハイデガーは長生きしたから晩年の写真しか思い浮かべられなかったが、この論争で、1933年当時の写真が大きく出て、ヒトラー髭をたくわえた様子が、 挑発的で、印象的だ。

私は、哲学作品が著者の政治的立場によって断罪される必要は必ずしもないと思うし、一人の思想家はまた、時代の、民族の申し子であり、たえず変化したり 成長したり試行錯誤したりするものだと思うので、ハイデガーだのフルトベングラーだのを「へえ親ナチだったんだ」と指さす気など元よりない。しかし、ヨー ロッパのように、狭いところで多言語の多民族が割拠してきた歴史を思う時、ドイツ人の魅力と一種の危険性とが表裏一体になっているのをあらためて感じる。 そこで、思いは、また、ベネディクトゥス16世(B16)へと移っていく。戦争の時、彼がまだ少年でしかなかったこと、しかし、「私達ドイツ人は」とため らわずホロコーストの誤りを語ることを思う。そして、民族のピュアなアィデンティティを得るために神聖ローマ帝国を卒業しローマ教会から独立することを願 い、プロテスタント文化やドイツ・ロマン派を打ち立てたドイツは、今、自国人が、世界10億のローマ・カトリックの首長であるローマ法王になったのを見 た。

この意味は、ひょっとして、すごく大きいのではないだろうか。世間は、JP2が選出された時、ポーランドには自由がなく、しかし優勢なカトリック国で あったので、そのインパクトは大きかったが、ドイツはプロテスタントが優勢で信教の自由もあるからB16が法王になったからといって大した影響はないと評 した。
しかし、つい最近も、ヒトラーの死の60周年ということで話題が高まっていたヨーロッパの情勢を見ていると、今、ここで、ドイツ人のローマ法王が、ヨー ロッパ守護聖人であるベネディクトゥスの名を選んで登場したことを見ると、これなしにはヨーロッパの真の和解はあり得なかったのだとすら思えてくる。

友人が、ロシア正教のアレクシー大主教はドイツ移民の子孫なので、B16とドイツ人同士、対話が進むことが期待されていると教えてくれた。ロシアは、 JP2がどうしても訪問を果たせなかった国の一つである。ここになって、 ロシア正教の大主教とローマ法王が、「ドイツ人同士」と形容されるとは驚きでもある。B16ウオッティングは、刺激的なドイツ人ウオッチングにもなりそう だ。
(2005/5/6)

「私」と「私達」

毎月届く朝日新聞社の広報誌「一冊の本」五月号の最後に橋本治さんのエッセイがあり、日本人には「私」があって「私達」がないと書いてあった。中国の反 日デモに対して、「日本人」として反論せず、「自分には思い当たることがない」と言って逃げるのは日本人の無意識の責任回避であり、「悪いことをして反省 しない」としてますます嫌われやすくなるというのだ。他の外国人はまず何国人という立場がありその中で自分というものがあるのに、日本人は日本人というく くりを抜きにしていきなり自分があり、自分の立場で日本人を語るので「それであなたの考えは?と問われると答えられない。外のあり方を考えてから自分のあ り方を検討しないと大人になれない、という結論だ。

これを読んで、不思議な気がした。結語を読む限り、自分の属する共同体のことを考えないで自分自分と言っている日本人は世界で通用する大人になれない子 供だ、という論理だが、まず私個人はそういうコミュニタリアニズムの発想を否定してユニヴァーサリズムを擁護しようとしているので、「他の外国人はまず何 国人という立場がありその中で自分というものがある」というのはアングロサクソン的であっても、かならずしも「大人」とは言えないと思う。まあそのへん は、今執筆中の『犬の帝国と猫の共和国』 で論を展開するからここでは深くふれないとしても、私はむしろ、これまで日本人は「私達」といって集団の中に隠れて責任逃れをしているという論調に慣れて いた。文法的にも主語を曖昧にできるので、「私は」か「私達は」かをはっきりさせないと話が始まらない印欧語に比べると、一般論でごまかせるとか、そうい う感じだ。

もうだいぶ前になるが、フェミニズムの論客である女性教授がカルチャーセンターで講演していたのを見学させてもらったことがある。その時に、彼女は、外 国で「あなたたち日本人は」と言われると自分は猛烈に反発する、と言っていた。「私達日本人」というのは存在しない、「私」がどう思うかならお答えできま す、と英語で言うのだそうで、聴講していた人にはそれが「かっこよく」聞こえたらしくて受けていた。でもそれを聞いた時、私は驚いた。

外国に少しでも暮らしたことがある人なら、ふだんは「私」を主語に考えている人でも、外国人に対して、どうしても「私達日本人」と言わざるを得ないシ チュエーションに遭遇する。はやい話が「日本人は」とくくられて外国人に悪口を言われたら、自分は全然違うと思っていても、あるいは自分も常日頃日本人の そういう傾向を快く思っていなかったとしても、一応、日本人を代表して弁解したり正当化したりしたくなる。異国で日本人が自分一人、という状況になれば、 「私達日本人」として話さなくてはならない時もたくさんあるのだ。そんな時「私達日本人なんていない」と反発する方が、それこそおとなげないことになって しまう。

逆に、フランス人と話していて、「僕の知っている日本人はあなただけで、一人を一般化できないのは分かっているけれど、もしあなたをもって一般化すると したら、日本人はすばらしい」などと言われたことがあるが、その時は「私達日本人」のために単純に嬉しかった。すばらしいのは「私」ですよ、という発想は なかった。だから、フェミニスト教授が「私」を強調するのには違和感があったのだが、趣旨としては、「私達」で話すのでなく個人の責任で自分の意見を言う のが正しい、自己主張をしない日本人もそうあるべきだ、というのだろうと了解した。(この教授は、同じ文脈で、昭和天皇の葬儀を見学していた日本人女性が アメリカ人の連れに質問されて「日本人は皇室が好きだから」と英語で答えたのを聞きとがめて、「ちょっと、ねえちゃん、日本人は、なんて言って欲しくな い、あなたが皇室を好きかどうかであって、私を勝手にいっしょにしないでくれ」と口をはさんだと得意そうに言って、それもまたえらく受けていた。私は、私 が外国人に何か説明している時にこんな人がそばにいたら怖いなあと思った。)

このこともあって、何となく、日本人は「私達」と一般化してしゃべってしまう傾向があるが、本当は責任ある「私」で語らねばならない、という啓蒙活動が 存在するのかと思っていたのだ。ところが、橋本治さんは、日本人は自分しか視野に入らない子供のような「私」でばかり話すのをやめて、責任ある「私達」を 考えるべきだというふうに語っている。ひょっとして、「私」にも「私達」にも二種類あるのだろうか。幼児のような自己中心の「私」と大学教授のような責任 ある「私」があり、責任逃れをする匿名の「私達」と、「私」を位置付けるのに必要な基盤を与える「私達」があるのだろうか。

ちなみに、私がフランスで中国人の反日感情について説明しなくてはならなくなったことは一度だけあった。それは、アメリカの大学で中国人の学生から日本 の戦争責任のことをずっと聞かされてきたドイツ人からの質問だ。つまりドイツは第二次大戦の罪をずっと反省し続けているのに、日本は歴史をも書き換えよう としているというのは本当かと聞かれたのだ。

私は、まずドイツと日本の立場の違いを説明した。第二次大戦後ドイツとフランスは今のEUの基となる石炭鉄鋼同盟を結び、罪を許されて、将来の戦争回避 とヨーロッパ再建の共同目標を建てた。日本は、戦争した相手の中国が国民党と共産党の複雑な拮抗にあったこと、戦後、国民政府が台湾に移り、アメリカは最 初それを唯一の中国と承認していたこと、そして、中共とソ連という共産主義の東の盾としてアメリカが日本と急速に友好関係を結ぶ政治的必要があったため に、天皇制を温存したり、罪をすべて軍部に押しつけて、天皇も国民もみな軍部の暴走の犠牲者というプロパガンダを広めたので、一般に「日本人には戦争責任 がある」という占領教育はなされなかったこと、などの事情がある。

つまり冷戦構造の中で、軍部の責任者をスケープゴートにした後では、アメリカの政策の中で「(軍部の犠牲となった)日本人が中国に反省して謝る」という シェーマが採用されなかったのだ。ドイツのような一億総懺悔によるリセットはなかった。だから、日本人が、「私達」として「中国にすごく悪いことをした」 とあまり思っていないのはそのような政策の結果なのだ。その意味で日本人の「私達」を分断して戦争責任を回避する個々の「私」に解消してしまったのは戦後 史の帰結だった。ところが共産中国の方は、自国の矛盾や困難から国民の目をそらせて、憎しみにはけ口を与えるために、「日本まるごと」の「私達」を悪役の スケープゴートにするのが政策なのだから、その乖離は大きい。

結局、「罪の意識」というのも、教育であり、文化でさえある。ところが、「自分が自分が」というエゴというのは、都合のいい方向には、教育されなくても いくらでも拡大していく。早い話が、オリンピックやサッカーのワールドカップなどで、負ければそれは選手個人のヒストリーだが、勝てばみな「私達」の勝利 に酔っている。橋本治さんが心配しなくとも、そういう時には、みな、まず日本人という共同体を考えて、その威光をしっかり享受するわけだ。逆に、負けた時 にそれが国の恥、ひいては国民ひとりひとりの不名誉だと思い込むとしたら、それはそういう「教育」の成果であり、今の日本がそういう国でないことは確かな ので、それはほっとする。また、どんなに反日運動をされても、「何々人は悪だ」という教育もされないので、それもいい。問題は、そこで思考停止しないで、 自分の頭で、歴史の勉強はもちろん、共感能力や想像力を駆使して、「私」と「私達」の責任を正しく測れるかどうかだろう。

4月19日に新ローマ法王に選出されたベネディクトゥス16世は、ドイツ人である。その彼が、ヴァティカンの教理省トップであった枢機卿時代に、イタリ ア人無神論者の倫理学教授と討論したことがある。この話はまた別のところで触れるが、要するに、二人とも、信仰のあるなしは別として、基本的人権というも のは、人間がユニヴァーサルに了解できるものだということに合意していた。たとえば人命の尊重は、それがどんな弱い人間であれ、絶対的なものである。ある 人命を奪うということは、どんなに民主的に多数決で決められようと、合法的であろうと、ある民族や部族の伝統であろうと、正しいことではない。
話がこう展開していた時、未来のベネディクトゥス16世であるラツィンガー枢機卿は、突然こう言った。「私達ドイツ人は、生きる権利がない人々が存在す ると決めました。私達は純粋な民族と未来の上等な人間を創るために、世界からこれらの下等な生命を排除する権利があると自負したのです。ところが、ニュー ルンベルグ法廷は、いかなる政府によっても否定されることのできない権利というものがあると宣言しています。たとえある民衆のすべてがそうしたいと望んだ としても、それをするのは正しくないのです」 この時、ラツィンガーはヴァティカンの代表として討論していたのであって、ドイツ人を代表していたわけではない。法王になってから、彼が少年時代ヒト ラー・ユーゲントにいたことをあてこする人も出てきたが、13歳で義務的に学徒動員され、しかもナチスに否定的な家庭で育ち、聖職者志願という口実で後方 支援にまわしてもらい、いわゆる戦争責任はどうみても問えない。その彼が、促されたわけでもないのに、「私達ドイツ人は」と言ってホロコーストを批判した のだ。これを読んで、私は、ラツィンガーが「大人」だと思い、「かっこいい」とも思い、彼が好きになった。

私も、「私は」と「私達日本人は」と「私達人間は」という主語が、響きあい、力を得、互いを結びつけあうような使い方をしながら生きていきたい。
(2005/5/3)

『私たちは巨人だった』

最近読んだドイツ語からフランス語に訳された『私たちは巨人だった』というノンフィクションについて。
最近、ナチスのユダヤ人収容所が連合軍に解放された60周年記念ということで、こちらではテレビも雑誌もその特集があいつぎました。この本もその一環で、 ホロコーストの生き残りの証言記録みたいなものです。ルーマニアに住んでいたユダヤの家族で、父親はすでに亡く、母親と7人の子供たちがアウシュビッツに 送られ、悪魔の遺伝子学者メンゲルに出会い、優遇されて全員生き延びたという話なのです。その子供たちは、全員いわゆる「小人」でした。父親も小人で10 人の子のうち7人が小人、1メートル未満で頭は普通サイズという、もっとも外観の「異常さ」の大きいタイプですが、すべてが彼らのサイズに合わせて作られ たおうちで楽しく暮らしていたそうです。全員(男2女5)がアーティスト、小さなサイズのバイオリンやギターやチェロやオルガンを駆使して、五カ国語で歌 い、ボードヴィルの芝居もして、東欧中を興行してすごい人気だったのです。1944年に連行されたときは全員20歳を過ぎた成人です。でも小人なので母親 といっしょにかたまって連れていかれたのでしょう。
収容所で、煙を吐く大きな死の煙突を見ながら女子供が家畜のように仕分けられている時、優雅な物腰の33歳の士官が現れました。「せむし」や「みつ口」や 小頭症などの奇形の研究に関心を抱いて実験材料を渉猟していたSSのボランティア、ヨセフ・メンゲルです。彼は七人の小人を母親ごと貰い受け、珍しい例に 大喜びして、収容所内の特別のバラックに家族を住まわせました。彼らは囚人服を着せられることもなく、清潔な環境で丁重に扱われました。他の囚人たちには 僅かな行き違いでもヒステリックに声を荒げるメンゲルは、ドイツ語を解する小人の家族にはいつも静かに応対したそうです。「小人たち」も、きれい好きのメ ンゲルの前では、彼にふさわしいようにエレガントな服装をするよう気をつけたそうです。彼らは、メンゲルが、囚人たちを使って人体実験をしていることを 知っていました。毒物の注射はもちろん、少年たちは麻酔なしで腹を割かれたり去勢されたりし、手足を外部の研究所に輸送したり、ジプシーたちの眼球が摘出 されました。ある士官が3000人の子供を無差別に選んで金槌で頭を殴って殺していった時も、「小人たち」はメンゲルによって守られました。もちろん彼 らも、2、3日ごとに血液採取されたり、骨髄を採取されるなどの扱いを受けてはいたのですが、人質が生殺与奪の権を持つ犯人に、保身の本能からすり寄って しまうストックホルム症候群のように、メンゲルにシンパシーを抱いてしまい、戦後もずっとその感覚から逃れることができませんでした。1945年に解放さ れていったん東欧に帰ったものの、彼らは1949年にイスラエルに移住し、芸人としてまた活躍し、なかよく華やかに暮らします。
2001年に兄弟姉妹のうち最後に死んだペルラは、「私のハンディは、私を生き延びさせるために神が思いついたたった一つの手段だったのよ」というのが口 癖だったそうです。でも彼女が生前に作っていた墓碑には、「人生の毎日を苦しんだ小人の家族の最後の一員ここに眠る」と銘が彫られてあったそうです。
この話は、他に、地獄のような収容所での倒錯的な小さな幸せとか、悲劇と喜びとの混在とか、不幸や気晴らしにおける兄弟たちの関係とか、いろいろなエピ ソードがあるのですが、私には、なんとも後味が悪い気がしました。ユダヤ人の皮でランプ・シェードを作っているようなSSが飼い犬には優しく、モーツアル トを愛していたとかいうようなエピソードはよく聞きます。彼らがただの怪物であってくれた方が断罪しやすいのですが、普通の人が悪魔になれるとい うのが残念ながら事実のようです。「小人たち」がもちろんナチスの犠牲者であることは疑いはありません。そういう状況で変に「優遇」された人たちが、殺さ れた同胞たちに罪の意識を感じるというのも分かります。でもこの七人の小人、オヴッツ兄弟はその奇形のハンディ故に優遇されたので、そこがもう一つねじれ ています。それに、多分その時代のヨーロッパでは、普通の家族でも、父や息子が戦場に駆り出されたりしてばらばらになっていたことでしょう。みな窮乏と不 安の中で暮らしていたのです。その中で、オヴッツ兄弟は、収容所の中とはいえ、小ぎれいなうちできれいな服をきて音楽を奏で、成人した兄弟が、みんないっ しょになかよく平和に暮らせたのです。もともとお互いいっしょに一座を組んで演じてきた息の合った兄弟たちが、ある意味、そのまま、特権的に暮らせた。も ちろん自由はなく、自分たちの状況をはっきり知りながら。変な話ですが、私の母は、戦時中、工場に駆り出されたものの、子供ではなかったので、親元に残れ ました。空襲は経験したものの、幸い自分の家は焼けず、何といっても両親が揃って守ってくれていたので、全体としてはいやな思いはしなかったそうです。そ れにひきかえ、10歳年下の末の妹は、強制的に学童疎開させられ、両親と引き離されたことや飢えやその他、思い出すのも抑圧してしまうような大きなトラウ マを抱えたそうです。つまり、同じような極限状況でも、家族そろってくっついていたら、それなりに「普通」だと感じるくらい人間は自分をだます生存戦略を 持っているのですね。
この話は、最初に書いたように考えるタネに過ぎず、結論があるわけではありません。毎日毎時間、戦争や飢饉や貧困で世界中で子供たちが死んでいく同じ地球 の上で、環境汚染のただ中で、それなりに楽しく家族的しあわせを生きている先進国の人間のことだとか、社会的に差別されているグループの中で自分だけ逆差 別のシステムにのっかって特権を得てしまった人間のことだとか、さらには、残酷なことを機械的に日常的にやっているのに、矛盾した感傷的なほころびに足を とられて自分が権力をふるっている相手と抜き差しならぬ関係ができてしまう人間のことだとか、いろんなことが頭をよぎります。この世は多かれ少なかれ、み な自由を制限され、死を免れない収容所であって、その中で肉を切らせて骨を断つみたいに、大きなハンディを抱えることで運命に反撃してみる、などという構 図も浮かんできます。考えて見ると、自分は悪くないのに悪い人のせいで一方的に犠牲者にされてあえなく死ぬ、なんていう分かりやすく納得しやすく悲憤しや すい死に方ができる人は少ないのかもしれません。私はもう、そういう単純さを信じることができなくて、一方で、複雑さや罪悪感を突き抜けた単純さの明るさ に一方的に照らされている自分も感じるのです。

陶磁器修理のお話から・・・

今日、陶磁器の修理の話を読みました。欠けたところを漆でうめて、そこに金貼りする方法(金継ぎ)です。こうして修理されたものは、景色がついた (茶道の、「月も、雲間の無きはいやにて候」というやつです)といって、完璧な物より珍重されるとか。直されたものは欠陥品ではない、いとおしまれた物で あり、欠けていた部分が金で目立つからそこに負担をかけまいと大事に扱ってもらえる、こういう感性は、西洋風の、修復(元の状態を復元)にはないそうで、 含蓄があります。 人生も、健康も、欠けたところは元通りにならなくても、それなりに修理して、金で飾って再出発というのもありなんですね。

この本は知り合いの編集者が送ってくれたもので、『陶磁器の修理うけおいます』(中央公論新社)という本です。著者は、イギリスに行って修復を学び、湯飲 みを修復して使っていたら、剥がれてしまった。学校に電話すると、使っていたことに驚かれる。もともと修復は見た目を完璧に直すので使い続けるという発想 はなく、洗ったりするとだめ、というわけです。この後、私は編集者にこういうメールを出しました。  私の目には、あの陶磁器の本、修理と修復の違いに、人間関係のメタファーがすごくはっきりしてるなーと思いましたよ。だから、むしろそれをあえて強調せ ず終わってるのが上品だと。うちにも古い皿がいろいろありますが、最初から飾り皿です。食器とは別物のような。やはり、壊さないようにして次代に伝えると いう感じですね。昔、リモージュのポルスレーヌに詳しい親戚(もちろんリモージュの旧家出身)に聞いたところによれば、すべての絵付けとか、銘は、傷隠し なのだそうです。ダイヤと呼ばれる最高級は、白無垢で、柄も銘も無く、光が透けて見えて、指ではじくとクリスタルの音だそうで、生産過程で、すごくまれ に、そういうのが出てくるとか。他はたいていどこかに傷やゆがみやムラが出て、そもそもそこをカバーするように絵付けするのだそうです。 完璧でないもの には化粧して、かえって個性を付け加えてやるという意味では、すでにこの工程が「金継ぎ」と同じ精神なのかも。

逆に、東洋風では、製作過程での偶然のムラ とかにじみとかにかえって風情を感じたりしますよね。この違いは、絵画や書にもあり、なぜこうなったかというのは、例の私の好きな若林直樹さんの『退屈な 美術史・・・』にあるように、中国では、支配階級がイコール文人で、偶然とか自然を愛でる贅沢が許されたことと関係があるのでしょう。自分で書く書は、か すれてもムラができてもその偶然性を愛でることができても、 西洋の宮廷のお抱えの職人たちなら「完璧」しか選択が無かったというような。 どちらにも惹かれます。 ここまでが編集者へのメールです。

そのあと、骨董を集めている友人と話して金継ぎの椀とか見せてもらったら、東洋だって基本的には、欠けてない完璧なもの を求めている、中国でくずみたいなものを、日本に持ってきて、だれか「偉い人」が一言「これはいい」といえば、それで金継ぎものがブームになり値が上がっ たりする、箱書きだけで値がつく、日本の基準は、「権威」が作るのだと言われてしまいました。フランスでは、見た目に美しい物がちゃんと評価されて、すく なくともはっきりしているので、日本人は、フランス人が買わない汚れたり欠けた中国の壷などをパリで安く買って、日本で高く売るのだそうです。

こんなこと を聞いているうちに混乱してきました。たとえば、人間関係でも、一度壊れても、何事もなかったように「修復」できるのか、しかし、傷が見えぬようそっと付 き合うのか、または、継ぎはぎして「修理」して、傷は見えても、前のように付き合えるのか、とか。あるいは、欠けなくても、汚れたものとかシミとかはどう するのか、人が年とってシミやシワができるのを隠したり「修復」するのがいいのか、「修理」がいいのか、病や事故の後で機能が回復した(修理された)後、 外見を修復すべきなのか、外見の変化は、アイデンティティにどう影響するのか、とかいろいろなことです。日本では欠けた物を大事に使う茶道の精神があり、 西洋は完璧主義とかいう単純な問題ではないようです。やはり、「無常」に抵抗する人間の愚かさの限界、見た目に美しい新しいものを愛でる優生主義の誘惑と かにまで思考が広がってしまいます。陶磁器修理の楽しい雑学と比較文化の「ちょっと面白い話」だったはずが、「考えるタネ」になってしまったわけです。

ある事件から:2組のカップルの行方

ちょっと暗い話なのですみません。ある3面記事の話なのですが、それを読んで以来ずっと喉に小骨がつっかえています。 私はもともと犯罪実話に興味がありました。法律でも、人が、普通に人間として暮らす範囲の民法や商法より、人が人でなくなるような逸脱のメカニズムに関心 があり、学生時代、後に総長になった刑法の平野教授だったかのゼミに出て、熱海に合宿までしました。女子学生は私一人でした。今ご紹介する事件よりもっと 猟奇的だったり残酷な犯罪はいくらでもあるでしょう。 でも、これを偶然新聞で読んで私は衝撃を受けたのです。去年の秋の話です。

パリ郊外で、82歳の男性が、2002年に元妻を殺害した罪の裁判があり、30年の禁固刑の判決が下りそうだという話です。彼の元妻は金槌で12回殴ら れ、顔や喉を刃物で16箇所刺されました。驚いたのはその背景です。彼らは、1977年に離婚した後も、経済上の理由で、同じアパルトマンに住み続けてい たというのです。別々に生計を立てる余裕がなかったのですね。それで、寝室を別にして鍵をかけ、買い物したものなどもそれぞれの部屋に分けて、何も共有し なかったのです。

事件の起こった日、元妻はアパルトマンの床に「うちにかけられている呪いを解くために」化学薬品を撒いていたそうです。 彼女はこれを少なくとも日に6回、もう5週間も続けていました。元夫はそのせいでおかしくなったと供述しています。彼女は前にも、火をつけて何度もぼやを 出していて、明らかに正常ではありません。二人は結婚していた間に8人の子を得ています。一人は自殺し、一人は病死し、薬物中毒で強暴だったもう一人の息 子は、1993年に父親に殺害されています。その事件では、父親は情状酌量されて1995年に無罪となっているそうです。
記事はこれで全部です。私が愕然としたのは、鬼気迫る情況より、彼らが、金がないから同居していたという事実でした。25年もです。離婚した時、元夫は 55歳ですから、もういわゆる子供の手が離れた夫婦だったのですね。(93年に息子を殺害した時は70を超えていたわけです。)パリ近郊は離婚率が高く、 私の周りにも離婚した人はたくさんいます。しかし、想像力が不足した私は、離婚しながら金銭的事情だけでそばで暮らさなければならない人がいるなんて思い もしなかったのです。憎しみあって離婚したとしても、実際別れていたら、日にち薬、25年も経たぬうちに憎しみは消滅していたでしょう。たとえ苦しいこと があっても、一緒に暮らしているうちに情がわいてくるという話はわかりますが、彼らの場合、憎しみや絶望がずっと醸成されていたのです。ネガティヴなタネ も、愛のタネと同じく育っていくわけです。

彼らは名前からしてイタリアかポルトガルの移民出身のようです。実家に帰るとか、自立するとかいう選択は妻になかったのでしょう。日本なら、経済力のない 妻は結婚が破綻してもじっと我慢してるか、別れるなら何とか自立するでしょう。子供も多いのだから何とか身の振り方があるかもしれません。二人とも出て行 けないで25年なんて、狂気に逃げるしかなかったのか、ともかく誰も彼らをそのシチュエーションから救ってくれなかった。我慢の妻でもなく、奔放に男を変 える女でもない、悪意とか屈辱とか閉塞とかがゴミのように張り付いて、少しずつ壊れていき、男の方は、80歳で、多分50年以上も同じ屋根の下にいた元妻 にそこまでの力を振り絞って命を断つだけの情念が残っていた。離婚して別れるなんて、恵まれた人なのですね。

これとほぼ同時期に、ブルジョワの若者が、自分をイエス・キリストだと信じて説教しているTV のドキュメンタリを見ました。無害だし、親に金があるので、病院にも入らず立派なアパルトマンをあてがわれて暮らしています。しかも若い女性と同棲してい る。その女性は過去に自分を男性のロック歌手だと信じていたのですが、今はほぼ正常に戻って、自分をイエスだといっている金持ちの息子とまあ平和に暮らし ているわけです。それで、男の方は、金髪を肩まで伸ばし、穏やかで、それなりにハンサムで、女の方は、ほとんど醜いのです。でも二人で散歩しているところ などはどこか牧歌的でもありました。ところが彼らのアパルトマンにTVカメラが入ると、広くて立派そうなアパルトマンの一面に物が散乱し、足の踏み場もな いのです。何だか彼らは質素にシンプルに暮らしているのを想像していたので、そのすさまじい無秩序の荒々しさに圧倒されました。「人生とは、嵐の夜に一人 で吊橋を渡るようなもの」というフレーズが私に脈絡なく浮んだのはその瞬間でした。

この二組のカップルの話が、今後私の中でどう意味を持ってくるのか分かりません。言えるのは、無力感の方が何か真実っぽくて、気持ちが高揚したり自分に自 信をもてる時の方は、何か脆弱な感じがするということです。
変な話を書いてすみません。暗くなりたくない方はお忘れください。次はもっと楽しいものにしたいです。


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